第一章バスがきた。 私は毎朝バスに乗って通学する。眠気の残っている体は、まだ少しだるい。バス停に立っているのは私一人だけだった。 バスが私の前に止まった。ドアが開く。私はステップを上がった。 運転席からおはようと声をかけられ、私もあいさつを返した。田舎のバスでは、毎日乗ってくる客と運転手はたいてい顔見知りになってしまう。私は時々この運転手の男の人と話をすることがあった。たいていの場合は向こうから声をかけてくれた。 バスの中はガランとしていて、ほとんど客はいなかった。いつものことだ。同じ高校の制服を着た男子が、3人ほど後ろの方の席に座っていた。3人とも眠そうな顔をしている。 私は前から3番目の2人がけの席に座った。同時にバスが走り出した。窓から朝日が差し込んできてまぶしかった。今日は気持ちのいい晴れだと天気予報が言っていた。きっと昨日と同じくらいに暑くなるのだろう。 私はカバンの中を探った。そして同時にしまった、と思った。MDウォークマンを忘れてきてしまった。充電するためにカバンから取り出してそのままにしてきてしまったのだ。 私はバスに乗るとき、たいてい音楽を聴いている。退屈だからではない。周りの音を耳に入れないためだ。男子の騒ぎ声やオバサンの五月蝿いおしゃべりなど、なるべく聞きたくない。 仕方なく、私はMDを諦めた。 窓の外の景色は、家の密集した場所から離れ始めていた。田舎の道を、バスはゆっくりと進んでいく。周りには青々とした山ばかりがあり、私はずっとその木々を眺めていた。深い緑色の葉は、遠くから見ても涼しげで美しかった。バスが道に突き出した葉の下を通ると、木漏れ日がきらきらと私の顔に降り注いだ。まさに木々は今、生きていた。 その時、バスが止まった。何気なくドアの外に目をやると、そこには中年の男性が立っていた。ドアが音をたてて開き、男性がステップを上がってきた。見た目ですぐにこの辺りの人ではないと思った。男性の服装は、濃紺のシャツに黒いズボンという地味ないでたちだった。しかし組み合わせのセンスはよく、デザインもすっきりとしていた。この辺りの中年男性になかなかこんな服装の人はいない。男性は私の後ろの席に腰掛けた。 また、バスが走り出した。 しばらくぼーっと考えながら、私はふと不思議に思った。さっき男性が乗ってきたバス停は、ある工場の前にあるものだった。付近に民家は一軒もない。そのバス停は、この工場に通うおばさんたちが利用する程度のものだ。それ以外には誰も利用しない。ましてこんな朝早くに、彼は一体ここで何をしていたというのだろうか。 そんなことを思いながら景色を眺めていると、だんだんと民家が現れ始めた。ここからしばらく行くと、わりと大きな街に出る。その街中にあるバスのターミナルで、私は一度バスを乗りかえる。10分程すれば、私の通う高校の前を通るバスが発車するのだ。 またバスが止まった。 ドアの外には中年の品のよさそうな女性が立っていた。この人も、この辺りの人ではないようだった。シンプルなデザインのサマーセーターに、ひざたけのスカートをはいていた。高そうな生地だが、さっきの男性と同様に色合いは地味だった。趣味が似ているなと感じた。だが、都会の人というのはそんなものなのかもしれない。 女性は、通路をはさんで私の斜め前の席に座った。彼女は手に持ったハンカチで口元を押さえ、終始うつむいたままだった。 やがてバスは終点のターミナルに到着した。乗客は全員ここまで誰も降りなかった。私は、運転手に定期を見せてバスを降りた。 私は待合室に入ってベンチに座った。今朝はいつもよりも人が少なかった。毎朝ここにはたくさんの学生が集まる。私の通う高校の手前に私立の女子高があり、そこの生徒もこの時間のバスを利用する。しかし、客の大半は私と同じ高校の生徒だ。 「あの、ちょっとすみません。」 後ろから突然声をかけられて、私は驚きながら振り向いた。さっき途中でバスに乗ってきた中年の女性だった。 「はい。」 私は恐る恐る応えた。 「Y市行きのバスは何分にここにくるんでしょうか?」 女性の言葉づかいは上品で、優しいトーンの声だった。 「35分です。多分もうすぐくると思うんですけど」 「すみません。ありがとうございました。」 女性は去り際にやさしい笑みを残していった。私も彼女に笑みを返し、元の姿勢に戻った。 女性が尋ねていったのは私が乗るのと同じバスだった。私は携帯を取り出して時刻を確認した。7時30分だった。 もうじき乗り場にバスがやってくる。 私はベンチから立ち上がって、待合室を出た。その時、さっきのバスの運転手に声をかけられた。 「高校はいつから夏休み?」 彼はとても話しやすく、気さくな性質の人だ。やさしい顔をしていて、若い頃にはそれなりにかっこよかったのだろうと思わせる顔立ちだった。 「来週の火曜日までです。」 「そうか、じゃあともう少しだね。」 「そうなんですけど、夏休み中も部活とかいろいろあって、ほとんど学校に行かなきゃいけないんです。」 彼は私の話を聞く間、ポケットに手を突っ込んでそこに立っていた。顔は終始笑顔だった。 「そりゃ大変だ。暑いけど頑張ってね。」 私たちはそれで別れた。運転手は待合室の横にある事務所の中に入っていった。 彼の後姿はどことなく心に残り、私の目に焼きついて離れなかった。 その時、乗り場にY市行きのバスがやってきた。アスファルトの上の空気は、熱気を帯び始めていた。バスの白い車体が眩しい。 私はバスに乗るために、乗り場にできた行列の最後尾に並んだ。さっきまでほとんど人がいなかったにもかかわらず、ちょっとした隙に大勢の人がやってきていた。私が乗り込んだ頃にはほとんど席は埋まっていた。かろうじて後ろのほうの2人がけの席が空いていた。私はそこに座った。バスの中はエアコンがきいていて、外の蒸し暑さが嘘のようだった。外を見ると、アスファルトがじりじりと焼けていくのがよく解る。ターミナルの白い壁が、太陽光を反射して眩しかった。 「すみません。ここ、空いてますか?」 「はい。どうぞ。」 さっきの女性だった。彼女は小さなハンドバッグを握り締めながら私の横に腰掛けた。手にもったハンカチで、うっすらと額に浮き出た汗を拭っている。 バスが動き出した。 私はカバンをひざの上で抱きしめながら、真夏の外の景色を眺めた。エアコンの冷気が私の顔にひんやりと吹いてくる。気持ちのいい風だった。さっきまでのべっとりとした空気は、見る見るうちに私の体から離れていった。 「高校生はいつから夏休みなの?」 隣から不意に声をかけられて、私はとっさに来週からですと応えた。女性は「そうなの」と言って短く息を吐いた。 「私の知り合いの子もね、あなたと同じ高校に通ってるの。2年生なんだけど、もうずいぶんと会っていないわ。」 女性は遠くを見ていた。 「そうなんですか。私も2年生なんです。」 私もどことなく遠くを見ながら言った。普段ならば、こんな風に見ず知らずの人と話すようなことはない。だから、そうしたほうが話しやすかった。 バスが止まった。 人が何人か乗り込んできた。その中に蒼の姿を見つけた。私の幼い時からの親友だ。私に気付いてこちらに近づいてきた。笑っている。私も笑い返した。 「おはよう」 「おはよう」 蒼は足が長く、痩せ型で色が白かった。顔立ちもハッキリしている方で、美人だ。私たちは幼い頃からずっと一緒の施設で育った。 二人とも親のいない子供だった。 物心ついた頃から、私と蒼は同じ施設で暮らしていた。親がいなくても私たちはけして寂しくなかった。親代わりになってくれた優しい先生や、面倒見のいい上級生がいてくれたおかげだった。しかし私が小学校2年生に上がる年に、私を養子として引き取ってくれる夫婦が現れた。 優しく気立てのいい夫婦だった。裕福な家庭だったが、子供に恵まれなかったのだという。2人は私のことを心から歓迎してくれた。おかげで、すぐに3人の生活になじむことができた。2人は私を本当の娘として可愛がってくれている。私も2人を本当の両親と思って慕っている。しかし、それから私はよく夢を見るようになった。それは実の父の夢だった。 私の右腕には昔の傷がある。それは施設に入る前からあったもので、私には今までそれがなぜできたのかという記憶が全くなかった。しかし、この夢で傷の由来がはっきりと思い出せたのだ。 私は家の前の路地で三輪車に乗って遊んでいた。すると、向から猛スピードで車がやってくるのだ。それに気付いた私は慌てて避けようとして、三輪車ごと家の庭に倒れこんでしまう。車をよけることはできたものの、落ちていた大きな石で腕に酷い怪我を負ってしまう。血が出ていて、私は泣いた。すると、家の中から父が出てくるのだ。私の名前を呼びながら私を抱き上げてくれる。 「大丈夫だよ、大丈夫だから。」 そう言ってあやされる。 私はいつもそこで目を覚ますのだった。 そのときの父の顔はぼんやりしていて思い出せない。ただ、優しい声だった。抱き上げられた腕にもたしか古い傷があった。わたしはそれだけしか、父のことを憶えていない。 私の腕の傷はだいぶ薄くなりつつある。しかし、まだあとがちゃんと解る。今の両親には言っていないが、もしかしたら、この傷をしるしに父を探し出せるのではないかと考えたりもしている。 「リーダーの課題やった?」 「大体はね。でもちょっと訳のわかんないトコがある。」 「じゃあ後でうつさせて。今日出席番号で当たると思うからさ。」 「いいけど、蒼が課題やってこないなんで珍しいね。」 「学校に忘れちゃったんだもん。」 私たちが話をしていると、降車ボタンのブザーが鳴った。間もなくバスがブレーキをかけ、隣に座っていた女性が席を立った。女性は私のほうを見て微笑みながらお辞儀をした。私もとりあえず顔に笑みを作って会釈をした。 「今の人、知り合い?」 そんな私を見て蒼が私に言った。私は首を振りながらううん、と答えた。 その後はほとんど窓を見つめたままだった。何を考えるでもなく、ただぼーっとしていた。時々瞬きを忘れそうになった。知らない女性を、なんとなく身近で懐かしい人に感じたのはなぜなのだろう。 その時ふと思った。 実の父の夢は見るのに、なぜ母の夢は見ないのだろう。 やがて私たちは学校の前でバスを降りた。学校の前では20人程の生徒がバスを降りる。バスは私たちを残して走り去っていった。私はその後姿を眺めていた。アスファルトの上では、陽炎がちらちらとしていた。 放課後、校門の前でバスを待った。私は6時にやってくるバスで家に帰る。蒼は吹奏楽部なので私よりもひとつ遅いバスで帰るのだ。私は写真部の部長をしている。週に3日程度しか活動をしないが、今日はその日だった。私の肩には通学用のカバン以外に、もうひとつ、カメラ専用のカバンがかかっている。中にはふたつのレンズと、カメラ、数本のフィルムが入っている。これが以外に重い。 私のほかにバスを待っている人はいなかった。夕方になって、夏の強い陽射しもだいぶ和らいではきていたが、それでもまだ蝉が鳴いている。風もまだ少し生ぬるい。 夕日が、校舎をオレンジ色に染めていた。いいアングルだ。私はカメラを取り出して、シャッターをきった。普段はカメラを家に持ち帰ったりはしない。だが、明日は土曜。海に夕日を写しに行く予定なのだ。私は週末にカメラを持って海に行くことが多い。 そんな私に2年前、義父と義母は一眼レフカメラを買ってくれた。私がねだったのだ。15の誕生日だった。私が2人に引き取られてから、何かをねだったのはそれが初めてだった。 バスが来た。 私はカメラをカバンの中にしまった。ステップを上り、空いている席を探す。この時間としては珍しく、バスの中は空いていた。私は後ろの席に座った。 窓からオレンジ色の光が射してくる。眩しいが、なんとなく切ない感情に見舞われるのはなぜだろう。夕方という時刻が、私は好きだ。私の写す写真には夕日がおさめられているものが多い。青からオレンジ、そして黒へと移り変わっていく瞬間、空はなんともいえないグラデーションに彩られる。 私は人も被写体に選ぶ。たいていが見ず知らずの人だ。ほとんどの人間は、レンズを向けるとポーズを決め、身構える。だが、そんな風な人を移すのは好きではない。だから私は望遠レンズを駆使する。人の素顔を写そうと思うと、それが1番よい方法なのだ。家族といるとき、恋人といるとき、友達といるとき。シチュエーションはさまざまだけれど、全て人が心から幸せで人が心を許している瞬間。私はそういうときの顔を残す。 そういうときの人の顔は、みんなそれぞれにどれも綺麗だと思う。それは老人も子供も、男も女も代わりはしない。私はそういう顔が好きだ。人間が緊張を振りほどいて、1番自然な状態でいる瞬間。とても優しい、楽しい気持ちでいる顔。本人は気付いていないかも知れないが、とてもいい顔なのだ。 バスが止まった。 乗ってきたのは今朝の女性と、数人の中年男性や若い男性だった。女性は全く私に気付いていなかった。が、私は彼女から目をそらしてしまった。今朝のあの遠くを見つめていた瞳が、なんとなく切なくて、心が痛かった。どこかであんな表情をする人を見たことがある、そんな気がした。しかし、それが誰なのかは思い出せなかった。 女性は前の方の席に座った。私からは彼女の後姿しか見えない。女性はバスを降りるまでの間、終始窓の外を見つめていた。あるいは、窓の方を見ているだけでどこか遠いところを見つめていたのかもしれないが。 女性が降車ボタンを押したのは、N町一丁目のバス停だった。私には懐かしい場所だった。そこは私がかつて暮らしていた施設の近くにあるバス停だ。バス停から施設までは歩いて2・3分の距離だ。 夏休みなどに、時々私は施設を訪れる。昔から施設にいる先生に会いに行くついでに、何日間か泊り込みで手伝いをしたりする。私が施設にいた頃も、そういう風に手伝いにくる学生が何人かいた。私の育った施設にいる子供たちは、ほとんどが親のいない子供たちだ。だが、笑顔のとても明るい子供たちだ。昔とちっとも変わっていない。 女性は、ちょうど施設のある方向に向かって路地を歩いて行った。夕日が彼女の後姿をオレンジ色に照らしている。しばらくして、彼女の背中が住宅街へと消えていった。私はバスが動き出すまでの間、女性が歩いていったほうをずっと見つめていた。 バスが走り出した。 もうじき終点のターミナルに到着するというアナウンスが、車内に流れた。ターミナルで20分待てば、私がいつも乗るバスが発車する。その待ち時間に、普段は本を読んで過ごす。私のカバンの中にはいつも本が入っている。写真を写すことのほかに、読書も私の好きなことのひとつなのだ。これは施設にいる頃から変わらない。暇さえあれば本を手に持っている。本は不安も寂しさも、何もかも吹き飛ばしてくれる私にはなくてはならない友達だ。 ターミナルに着き、バスを降りた。待合室の周囲には数人の人が立ってバスを待っていた。事務所の前までくると、今朝の運転手の男の人が立っていた。喫煙所になっていて、そこでタバコをすっている。事務所内は禁煙だった。 「暑いねぇ。今帰り?」 彼はタバコの灰を灰皿に落としながらいった。 「はい。」 タバコの匂いを感じながら、私は答えた。義父と同じタバコだった。 「気をつけてね。そうだ、これあげるよ。」 彼はズボンのポケットを探って、何かを取り出した。そしてそれを私の手のひらに落とした。 「あ、ありがとうございます。」 グレープ味のキャンディーだった。私が礼を言うと、運転手はじゃあと言って事務所の中に入っていった。後に残ったのは、かすかなタバコの煙だけだった。 その後しばらくして、私はバスに乗り込んだ。車内はやはり空いていて、ガランとした座席にエアコンの冷風が吹いていた。私の顔にもやはり吹き付けていて、ほてった顔を冷やしてくれた。口の中では、グレープの味が広がっていた。なんとなく、実の父のことを思い出した。 |